京商グランプリ50周年記念 Born in the Race!

あの日の興奮が、
貴重なアーカイブと共に蘇る。

京商グランプリ50周年という記念すべき節目に、改めて原点へと立ち返ってみようと思う。 日本のRCカーはいかにして生まれ、世界を驚かせる存在へと進化したのでしょうか。今回、その歴史の証言者として、長きにわたりRCの進化を追い続けてきた株式会社電波社(旧名称・電波実験社) 様の多大なるご協力をいただいた。

同社が保管する当時の貴重な掲載記事や写真資料と共に、京商が歩んできた「知られざる挑戦の記録」を紐解く。 ぜひ半世紀前、先駆者たちが夢見た景色を、その目でお確かめください。

Special Thanks:株式会社電波社(旧名称・電波実験社) 

コピーライト協力:佐々木 毅


This race is for over half a century・・・
誰よりも早く夢中になったのは、

半世紀前の京商だった。

 「京商グランプリ」の冠がつく以前、RCカーはマイナー・カテゴリーであった。電動モーターは非力で、バッテリーは重く、十分なパワーを引き出せるものはなく、今で言うトイラジ的なものだった。もっと速く、もっと自在に走らせたいという想いが、モデラーの胸には燻(くすぶ)っていたのは確かだ。そこで注目されたパワーソースが、すでに普及していたRC飛行機用2ストローク・グローエンジンだった。排気量3.2ccのエンジンが繰り出すパワーは頼もしく、本格レースを夢見る先駆者達に力を与えた。しかし、車への搭載となると停止状態が不可欠。エンストなく駆動をON/OFFできるイノベーションが必要だった。そんな折、模型用遠心クラッチが出現する。「これがあればレースができる!」と、立ち上がったのは、世界中でその時を待っていたRCカーのパイオニア達だ。

※京商創立40周年の時に制作された「KYOSHO R/C HISTORY」(英語のみ)


 早期から本格レースカーの製品化を夢見ていた京商創業者の鈴木 久は、マシンを開発・製造して市場投入を果たす。それが日本初の市販エンジンRCレーシングカー“DASH 1”であった。

   だが当時、RCカーの可能性に気づいているモデラーはまだまだ少数。ほとんどがレースの可能性には半信半疑だった。ならば先頭に立ってRCカーの醍醐味を知らしめようと、創業者自らがレース開催に奔走。もちろん、当時模型用サーキットなどあるはずもなく、場所選びは困難を極めた。さまざまなコネクションを駆使して見つけた場所は、なんと正面に皇居を望む、国立劇場駐車場だった。

■ 1971年2月号 

  1970年12月12日、その日はやって来た。それは、日本のモータースポーツ史に刻まれるべき日と言っても大袈裟ではない。国内初レースが、日本のエンターティンメントを代表する場所で開催されたのだ。その栄誉は、後に続くRCカーの未来を明るく照らすものであった。

この日集まったドライバーは18名。誰よりも早く、本格的なRCカーレースを夢描いていた、名うてのRCモデラーばかり。とはいえ前例がないカテゴリー、全員RCカー専門のわけがない。RC飛行機やボートのエキスパートで占めていた。しかし、彼らは先見の明を持つ人たちでもあった。
 この時の記録を見ると、レース名は「京商・第1回グランドレース」となっている。RCカーを、広く世間に認知してもらおうという、プロモーションの役割も担ってもいたので、シリーズ戦を連想させる“グランプリ”という呼称は冠していなかったのだ。

しかし、この直後から全国的にRCドライバーは激増していく。その結果、毎年の開催は定例化し、今につながる“京商グランプリ”開催へとつながっていった。つまり、「京商・第1回グランドレース」は、まがうことなくその前身たる史実となったのだ。


電波整備に尽力した京商株式会社

 RCカーレースは、RC界の進歩の指標と言えるものでもあった。

 ドライビングを行う無線装置は、普及の緒についたばかりのプロポーショナル(比例制御)システム。それ以前は最大舵角か0かの動作だったので、レースができる代物ではなかったのだ。

安定したドライビングは心許せないものだった。それを解消すべくFM変調方式がやがて普及するのだが、レースにはそれだけでは事足りない。国から認められている周波数帯は、様々な民生機と共用する帯域しかなかった。当時の技術力では、それを分割しても同時走行はわずかな数のみ。その後無線機メーカーの努力のおかげで技術的な多バンド化を果たし、最大8台まで走れるようにはなったが、法的制約はまだRC界を縛っていた。帯域共用による妨害電波問題が解決できていなかったのだ。そんな環境下でも、京商はレース活動を地道に継続していた。 加えて当時のRCモデル用電波はAMが主流。ノイズで誤作動を起こしやすく、安定したドライビングは心許ないものだった。それを解消すべくFM変調方式がやがて普及するのだが、レースにはそれだけでは事足りない。国から認められている周波数帯は、様々な民生機と共用する帯域しかなかった。当時の技術力では、それを分割しても同時走行はわずかな数のみ。その後、無線機メーカーの努力のおかげで技術的な多バンド化を果たし、最大8台まで走れるようにはなったが、法的制約はまだRC界を縛っていた。帯域共用による妨害電波問題が解決できていなかったのだ。そんな環境下でも、京商はレース活動を地道に継続していた。

 潮目が変わったのは、業界を挙げてのRC専用電波獲得活動だった。その旗振り役の中心を京商は担った。その活動は功を奏し、専用電波の獲得後、RCカーレースは安全に進行できるようになった。おかげで加速度的な隆盛を迎える。もちろん他のRCカテゴリーでも恩恵を等しく享受し、日本のRC市場は大きく発展する。そしてその勢いは海外進出へとつながり、日本メーカーが世界的シェアを続々と獲得していく礎になったのだ。

 現在、2.4GHzが一般的となり、デジタル技術の進化と普及により、混信の可能性は限りなく小さくなった。また、同時走行数も飛躍的に増大した。現在のRCカーはその恩恵を授かっているわけだが、「京商グランプリ」の歴史は、そんな不自由な電波環境下でも続けられていた。レースをしたい! そのために生み出し、そのための進化であった。そんな想いが、今も今も「京商グランプリ」には綿々と引き継がれている。


※創業者は後年、業界発展の功績を讃えられ、RC界ではただ一人、国から黄綬褒章を授与されるという栄誉に浴したのだった。


エンジンより速いシャシー

 実車レーサーや“エンスー”と呼ばれる人たちが、「エンジンよりも速いシャシー(※エンジンパワーを許容できないシャシー)」いうメタファーを使うのを見聞きしたことがあるだろう。黎明期のRCレーシングカーが求めたテーマは、実にそれだった。

 パワフルなエンジンによって走り出したRCカーだったが、 “ダッシュ1”をはじめとした初期のRCレーサーのシャシーは、実にプリミティブな構造だった。ジュラルミンの1枚板にリジッドアクスル、フロントはキングピンにコイルスプリングをあてがったのみ。いわゆるフラットパン・シャシーと呼ばれ、ジュラルミン板の剛性や反発力がサス代わりというもの。ダンパーも、デフギヤもない市販車が、当たり前のように登場していた。当然、シャシー各部のジオメトリーといった概念も、まだ根付いていなかった。これではパワーを生かしきれず、マシンは暴れまくる。明らかに「エンジンよりも遅いシャシー」だったわけである。 ダッシュ1が「RCカーレースへ誘う」役割を果たした後、京商は新たな高みを目指していく。それはまさに「エンジンよりも速いシャシー」を目指すものだった。

 独創的な3Pサス、四輪独立サス、それらを支える高機能オイルダンパー等々、足回りはどんどん進化を果たす。その過程で“ファントムシリーズ”は誕生する。

 並行して駆動メカの理想追求も怠らなかった。クラッチベルのピニオンとスパーギヤで駆動する原初的なRWDから、チェーン駆動のリジッドAWD、シャフト駆動やベルト駆動のセンターデフ装備フルタイムAWD、オートマチック多段ミッション等々、最先端で独創的な試みを、京商はどんどん製品化していった。


すべてが成功したわけではない。


 しかし、レース至上主義を貫く姿勢は、着実な成果を生んだ。ファントムから発展した新シリーズ“エボルバ”は、世界選手権3連覇を達成。この快挙は、国内レースである「京商グランプリ」が、世界的にトップレベルのレースであることを示してもいたわけである。そして、ハイレベルなRCカー設計・製造技術、そしてあくまでレースにこだわる姿勢は、1/8GPバギーや1/12EPレーシング、1/10EPバギーといった、国際レースが盛んなジャンルへとつながっていく。さらにはミニッツレーサーの世界的ブームをも生み出していったのだ。

1999年に1/8GPレーシングで世界選制覇を目標に掲げた京商は、ファントム21のリリースとともに、世界最強のチーム体制を構築。ランベルト・コラーリ選手をはじめ、デビット・スパシェト選手、そして、ジョッシュ・シリュール選手、エイドリアン・バーチン選手、下 高章選手が“TEAM KYOSHO INTERNATIONAL”に名を連ねた。2003年/2005年/2007年と3連覇の偉業を達成。


京商グランプリとメモリアルレース

 RC黎明期より専門誌として出版されていた月刊「ラジコン技術」には、当時の京商主催レースの報道がなされている。今回、そのバックナンバーの閲覧許可をもらい、確認作業を進めたところ、貴重な資料に遭遇することができた。50年の重みを語り、そして実感していただくために、そのいくつかの記事を紹介しておこう。

■1972年10月号

国立劇場での歴史的レースから1年後の1972年、今度は実車レースのメッカ、富士スピードウェイのジムカーナ場Bコースにて、「第2回 全日本RCレーシング・カー日本選手権」が開催された。1年後の参加者はなんと60名! この記事に掲載されている集合写真に、創業者鈴木 久の姿がある(向かって左端)。大幅に増えた参戦者を前に、RCカーレースの醍醐味が伝わったと、喜んだのは間違いない。そしてこの大会も、「京商グランプリ」の前身にあたる大会だったわけである。

■1973年10月号

「第3回 全日本RCレーシング・カー日本選手権」も、前回同様に開催場所は富士スピードウェイ。予選は1周150mを5周するレースを2ラウンド行い、決勝は10周で競われるという大会であった。

 記事には「第1回 チャンピオンレース」と題した1/8RCバギーレースにも触れられており、オンロード・レーシングだけではない、RCカーの広がりを垣間見せてくれている。

 これらレースを数年に渡り定期的に開催した後、数年後にレース名を「京商グランプリ」と改名し、半世紀以上にわたる歴史が始まるのだ。

当時、危惧していたことがあった。京商のワンメーク・レースだけでは、RCカーのさらなる発展は望めないと。そこでメーカー不問のレースを実現するために、国内RCカーレースを統括する組織作りへと、業界の一員として力を注いだ。その結果、日本を代表する唯一の組織として “JMRCA(Japan Model Radio control Car Association)”が創立される。これにより、欧米各国を代表するRCカー団体(組織)と、対等な連絡関係を構築できるようになり、権威ある日本選手権や世界選手権開催の糸口を紡ぎ出したのだった。

 ところで、このJMRCAのWEBサイトの「全日本選手権タイトル保持者・ エンジンカテゴリー(敬称略)」の1978 年の欄には「第1回1/8GPレーシング全日本選手権」初代チャンピオン岸 清勝の名が刻まれている。ご存知の方も多いが、岸(故人)は弊社RC開発部門を牽引していた人物で、RCカー黎明期を作り上げてきた一人でもある。もちろん「京商グランプリ」開催への貢献も大きなものがあった。

■1983年10月号

 話は一足飛びに10年後に移る。第13回大会は、すでに京商グランプリの名前を冠しており、ワンメイク・レースではなく、メーカー不問の大会となっている。

このあたりになると、当時を覚えているエキスパート・ドライバーも多いことだろう。そして、この名を聞いて、懐かしさ全開ではないだろうか。その名は当時のチーム京商のエースドライバー、中京出身「コンカツ」こと近藤 勝則氏だ。ジャンルを問わず大舞台で活躍した、天才肌のドライバーである。前年(1982年)のJMRCA 1/8レーシング全日本選手権優勝を果たしており、まさに絶頂期を迎えていた。

一方この年は、関西の若手ホープで当時15歳の長谷川 友紀選手が才能を開花させ、全日本チャンピオンの座を射止めた年でもある。その後、83年、84年、87年と通算3度の全日本制覇を成し遂げる日本屈指のドライバーへと成長する。誌面には、鈴木 久による表彰パーティでの挨拶も掲載されている。

また、同年は高麗 淳一選手がJMRCA 1/12電動レーシング選手権で初優勝を達成した。マシンは“ファントム21 4WD EXP”のチェーン・ドライブ技術を投入した1/12電動レーシング・マシンで、ファントムのDNAの実力を見せつけた年となった。

■1984年10月号

第14回目となったこの年の「京商グランプリ」は、相模湖ピクニックランドに開設された「SPLスピードウェイ」が舞台となった。この頃になるとRCカーは大ブームを迎えており、メジャーなテーマパークに常設コースが開設されるまでになっていたのだ。そんなこともあり、参加選手は前回を上回る80名と大人数を極めた。

この時の優勝者は、ファントムをチェーン・ドライブ4駆に仕立てて市販化に繋げた故 滝 雄次氏。各メーカーからこぞって4WDモデルが市場投入される、そのきっかけとなったマシンの開発者でもあった。

また、後に京商を代表するサポート・ドライバーとして全日本選手権でチャンピオンとなる下 高章選手が、ちびっ子・ドライバーとして大健闘。現在所属チームは異なるが、現役最年長チャンピオンとして今も第一線で活躍中だ。

■1985年10月号

1985年は、日本のRCレーシングカー史に残る年であった。なぜなら、世界を統括するRCカー組織、IFMAR 主催の世界選手権が、この日本、それも出来立ての東京ディズニーランドで開催されたからである。

この時、日本人最高位となる準優勝に輝いたのが、チーム京商ドライバーの一員、高麗 淳一選手だ。出場マシンは“ファントム21 4WD EXP”。レース中2度のエンストに涙を飲んだが、これがなければ・・・と、胸熱くさせたレースであった。

彼はその後この時の悔しさをバネに、直後に開催された1/12電動レーシングで見事、全日本選手権大会で2度目のチャンピオンの座を射止めている。

またこの号の記事は、弊社社員にとっても懐かしさを覚えさせた。当時の営業本部長であった故 深田氏、そして数々のアイデアを社外スタッフとして提供してくれた故 石神氏の懐かしい姿が写っているからだ。両氏は京商グランプリでもスタッフとして大活躍を見せ、参加選手の中にもその存在を覚えてくださっている方が大勢いる。

■1986年10月号

この年はマシン的にエポックメイキングな大会となった。数々の戦歴を重ねてきたファントムが、ついにチェーンドライブ4WDからベルト駆動4WDとなり、さらに4輪独立サスペンション、2スピードA/Tを標準装備した“ファントム4WD-4is”へと大幅進化したからである。このマシンも前述した故 滝 雄次氏の設計。

レースはファントムを駆って戦った長谷川 友紀選手が、強力ライバルのデルタ勢やサーパント勢を抑え、見事チャンピオンの座に輝いたのだった。


God speed you!
レース文化を支えるすべてのドライバーに、永遠のエールを贈りたい。

 「自動車メーカーのほとんどは、車を売るためにレースを行っている。だが我々は、レースを戦うために車を売っている」と、孤高の哲学を語ったのは、ご存知フェラーリである。同ブランドが唯一無二と言われる所以でもある。

京商のレース活動と時代背景を駆け足で辿ってきたが、京商は純粋な競技性を追求する「レースのためのレース」すなわち「京商グランプリ」を開催してきた。その理念こそが、レースで真価を発揮するマシンを生み出し続ける原動力となっている。この揺るぎなきスタンスをもって、この京商哲学、ひいてはRC文化をこれからも守っていきたい。そのために、京商グランプリの継続を誓いたい。10年後、いや半世紀後も、多くのRCレーサーたちと同じ地平を見つめていたい。記念すべき第50回京商グランプリに参戦するすべての選手たちよ、スピードの魔力はあなたを決して裏切らない。

スペシャルゲストに、実車レース界でお馴染みの道上 龍さんと

京商レジェンドドライバー高麗 淳一さんが参戦。

■大会名: 第50回 京商グランプリ

■開催日:2025年 12月14日(日) 【13日(土)公式練習日】

■会場:SRT サガミ堂レーシングトラック

■住所:神奈川県愛甲郡愛川町角田梅沢1147 Google Map参照

■TEL:046-286-9177

■HP :https://www.sagami-do.jp/cont2/6.html

■スケジュール

●12月13日(土)

公式練習日※コース使用料はショップにてお支払下さい。

13時から16時まで事前受付、予備車検行います。

京商スタッフによるセッティング講習も行います。

●12月14日(日)

7時から7時30分まで受付

受付、開会式、集合写真、競技説明、予選2回 全員決勝を予定

詳細なタイムスケジュールは12月5日掲載の選手案内にて発表致します。


■開催クラス

[ インファーノGTクラス ]:シャーシは京商製インファーノGT2、GT3に限る

[ 1/10 GP ツーリングクラス ]:スポンジタイヤクラス

[ 1/10 GP ツーリングクラス ]:ゴムタイヤクラス

[ ファントム・プラズマクラス ]:1/12スケールクラス

Kyosho Style

京商プロダクツと「ヒト・モノ・コト」。

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